自分自身という現象
少し哲学的な話になってしまいますが、自分自身とはどこまでが自分自身なのでしょう。
自身の肉体の内側でしょうか。
では、相手の想い出の中にいる自分自身は自分自身ではないのでしょうか。
個体としての自分自身というより、全体としての『一面』と捉える方が自然な氣が最近はしてきました。
その場に居る人達が、自分自身を映す鏡。
(自分自身の側面)
ある時は氣の合う遠い昔から知ってるかのような間柄で、何か大切なものを呼び起こしてくれるような相手。
はたまた、反面教師のような対象(笑)
対面同席五百生という言葉がありまして、
同じセミナーで出逢ったり、真向かいにいらっしゃる方と出逢えるのは、確率的にも稀なことですよね。
一生のうちでも出逢える方は、全人口の、とかよくありますよね。
これまで五百回以上の人生のなかで、深い関わり合い、学び愛をしている、言ってみれば自分自身という現象の集合体。
出逢『える』人、関わり合『える』人達が、おっきく自分自身なのではないかと想えるのです。
どれが自分なのかわからない。
いえ、どれも自分自身なのだと想います。
もともと、人間は多面体の生き物なのだと想います。
決して心(という現象)は歳をとることはなく、ふとしたきっかけで当時の想いや、痛みや、懐かしさを抱いたり『できる』。
同窓会であったり、幼馴染みに再会したり、その人との間には時間を感じないのではないでしょうか。
時間という現象を感じるのは、相手との様々な距離感からくるのではないかと、最近は想うようになりました。
全く気が合わない人と関わってると、疲弊するし、自分がやつれた氣がしませんか(笑)
先日、Points of you エバンジェリスト講座を受けてきました。
様々な美しいカードから気づきを導きだしていく、コーチングツールなのです。
その中で、Points of『view』という言葉に出逢えました。
それぞれの視点という意味です。
それぞれの見え方を尊重する。
正しいも間違いもない。
なぜなら、元々自分自身に在るものだから。
NARUTOという忍者を題材にした作品で、主人公が影分身して、それぞれの分身体で経験したことは、オリジナル(自分自身)に還元されるという設定があるのですが、
正に、人の経験(視点)が自身の気づきに成り得るということです。
ビジネスでも事例を学ぶ事が大切で、人の体験が自身の体験となるってことも言われていると想うのですが、
私達は、色々共有してるんですよね(笑)
自分自身とは関わり合『える』全ての方々。
そう想えると、様々な役割で関わり合っている方々も自分自身ということで、無下にはできにくくなってきますね(笑)
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